正解:4. 娘大姫の後鳥羽天皇入内
解説
頼朝は奥州合戦後に全国的な軍事的優位と統治基盤を固めましたが、最終的な権威の裏付けとして朝廷との結びつきをいっそう強める必要を感じていました。そこで建久年間の晩年に、政子や子女を伴って再度上洛し、朝廷工作の最重要課題として長女・大姫を後鳥羽天皇へ入内(じゅだい)させる構想を進めました。皇室と将軍家が姻戚関係を結べば、鎌倉政権は京都の公的秩序の内側に強固に位置づけられ、外戚として将軍家の家格・威信も飛躍的に高まるという思惑があったためです。いわば、軍事勢力としての実力に「宮廷的正統性」を重ねる狙いでした。
もっとも、大姫はかつての政略婚の挫折や心身の不調もあって入内に消極的で、計画は難航します。頼朝は朝廷側の了解取り付けや儀礼手続きの整備を進めつつ説得を重ねましたが、結局この入内策は、大姫が急死することなどがあり、成就しませんでした(のちに妹の三幡への入内構想へと軸足を移しますが、こちらも早世などで実を結びません)。それでも、この一連の動きは、鎌倉と京都の二元体制下で、武家政権が皇室との婚姻関係を通じて権威の安定を図ろうとした典型例として重要であると評価できます。
誤答肢について、①の東大寺大仏殿の落慶供養には頼朝は参列していますが、それ自体が「妻子同伴の再上洛の主目的」ではありません。②の「守護・地頭の改補申請」は政務上の課題ではあるものの、上洛の第一目的ではないです。③の将軍辞任の奏請は史実に合致せず、むしろ将軍家の地位強化を図る局面でした。以上より、正解は「娘大姫の後鳥羽天皇入内」です。
まとめ:
源頼朝(1147~1199年)は、鎌倉幕府を開いた初代将軍であり、日本の中世武家政権の基礎を築いた人物です。頼朝は河内源氏の棟梁・源義朝の子として生まれましたが、1159年の平治の乱で父が敗死すると、平清盛によって伊豆へ流されました。この配流生活の中で、のちに妻となる北条政子と結婚し、北条氏の支援を受けて勢力を広げる基盤を固めました。
1180年、以仁王の令旨に応じて平氏打倒の兵を挙げた頼朝は、石橋山の戦いで一度は敗れるものの、房総半島で勢力を回復し、鎌倉に本拠を構えました。これは後の鎌倉幕府の中心地となり、以降の日本史に大きな影響を与えることとなります。1185年には、弟源義経らの活躍によって壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼし、武士の時代を切り開きました。
頼朝は戦勝後も中央政界に強い影響力を及ぼし、1185年に後白河法皇から守護・地頭の設置を認められ、全国の武士を統制する制度を整えました。これにより、在地武士を組織的に支配する仕組みを構築し、武家政権の制度的基盤を固めたのです。1192年には征夷大将軍に任じられ、正式に鎌倉幕府を樹立しました。
頼朝の功績は、従来の貴族中心の政治から武士中心の政治への転換を実現したことにあります。従来、武士は貴族の下に従属する存在でしたが、頼朝は彼らを組織化し、御家人と主従関係を結ぶことで、新たな政治秩序を築きました。また、御恩と奉公の関係を通じて武士の忠誠と軍事力を確保し、幕府を持続的に運営する体制を整えました。
頼朝は1199年に落馬が原因で死去しましたが、その後も鎌倉幕府は約150年間にわたって日本の政治の中心であり続けました。彼の生涯と業績は、日本における武家政権の始まりを告げ、中世社会の成立に決定的な役割を果たしたのです。
参考文献:
元木泰雄著 (2019) 『源頼朝 : 武家政治の創始者』中公新書
坂井孝一著 (2016) 『源頼朝と鎌倉』吉川弘文館
五味文彦著 (2004) 『源義経』岩波新書