島原の乱:原城址 (Wikipedia) HOME > 歴史 > 日本史 > 日本史 江戸幕府における禁教と寺社のことがよくわかる!クイズ10問 2025年8月27日 日本史クイズ 江戸幕府における禁教と寺社のことがよくわかる!クイズ10問 1 / 10 Q1. 徳川幕府がキリスト教の布教を禁止する「禁教令」を出したのはいつですか? 1. 1614年 2. 1587年 3. 1612年 4. 1639年 【正解】3 【解説】 徳川家康は慶長17年(1612年)に、幕府直轄領でキリスト教の布教・信仰を禁じる禁教令を出しました。これはまず江戸や駿府などの直轄地を対象に、宣教師の活動や信者の集会を取り締まるものでした。その後、慶長19年(1614年)には全国規模の「伴天連追放令」(全国禁教令)が出され、宣教師の国外追放、教会破却、日本人信者の改宗強要が命じられ、弾圧は全国的に強化されます。さらに、宗門改めや寺請制度(檀家制度)が整えられ、踏絵による摘発も行われるようになりました。1637〜38年の島原・天草一揆(島原の乱)後には取り締まりが一段と厳格化し、寛永16年(1639年)のポルトガル船来航禁止へとつながります。以上から、徳川幕府が最初に禁教令を出した年は1612年です。 2 / 10 Q2. 禁教令によって、幕府から国外追放されたキリシタン大名は誰ですか? 1. 大友宗麟 2. 高山右近 3. 小西行長 4. 有馬晴信 【正解】2 【解説】 国外追放となったキリシタン大名は高山右近です。右近は摂津高槻城主などを務めた戦国大名で、洗礼名はジュスト(Justo)といいます。豊臣政権下の天正15年(1587年)に秀吉が出した伴天連追放令の際、右近は棄教を拒んで所領を失いながらも信仰を貫きました。徳川政権になると、慶長19年(1614年)に家康が全国規模の禁教令(伴天連追放令)を発し、宣教師の国外追放や教会破却、日本人信徒の弾圧が強化されます。このとき右近も棄教を命じられましたが従わず、家族や信徒らとともに長崎からマニラへ追放されました。右近は翌慶長20年(1615年)初めに現地で病没し、殉教的生涯を閉じたと伝えられます。右近の追放は、武家の有力者であっても信仰を理由に厳しく処罰するという幕府の断固たる姿勢を象徴し、その後の宗門改め・寺請制度や踏絵など、より徹底した禁制へと連続していきます。 なお、選択肢の他の人物は次のとおりです。大友宗麟は確かに著名なキリシタン大名ですが1587年に死去しており徳川期の国外追放とは関係がありません。小西行長はキリシタン大名でしたが、関ヶ原の戦い(1600年)後に処刑されています。有馬晴信もキリシタン大名ですが、1612年に処刑されており国外追放ではありません。 3 / 10 Q3.1622年、長崎で起きた「元和の大殉教」とは、どういう事件でしたか? 1. 長崎奉行所が全国に踏絵の実施を命じた事件 2. 26名のカトリック信者が処刑された事件(豊臣政権下) 3. キリシタン大名の高山右近が国外追放となった事件 4. 55名の宣教師・信徒が処刑された事件 【正解】4 【解説】 「元和の大殉教」は、元和8年(1622年)に長崎で起きた大規模なキリシタン弾圧事件で、55名の宣教師・修道士・日本人信徒が公開処刑された出来事を指します。場所は長崎の西坂の丘で、処刑方法は火刑や斬首などが用いられました。背景には、慶長19年(1614年)の全国禁教令(伴天連追放令)以降、潜伏下で信仰を続ける共同体や宣教師の活動がなおも確認されたことがあり、幕府は見せしめとして大規模な処断を行いました。これにより、宣教拠点であった長崎における教会・修道院は徹底的に破却され、信徒は改宗を迫られます。以後、宗門改めの制度化や諸地域での臨検・取締りが強化され、1630年代には踏絵の広範な実施、さらに1637〜38年の島原・天草一揆後の厳格化へとつながっていきます。 なお、選択肢2は1597年の「日本二十六聖人殉教」(豊臣政権期)の説明であり、元和の大殉教とは年代も政権も異なります。選択肢3の高山右近の国外追放は1614年の禁教令に伴う措置で、事件の性質が違います。選択肢1の踏絵の全国的実施は主として1630年代に本格化する施策で、1622年の出来事ではありません。 4 / 10 Q4. 1937年から翌年にかけて、領民への過酷な年貢やキリスト教弾圧に抗議して起こった百姓一揆を何と言いますか? 1. 加賀一向一揆 2. 大塩平八郎の乱 3. 元和の大殉教 4. 島原の乱 【正解】4 【解説】 正解は島原の乱です。場所は肥前国の島原半島と天草諸島で、島原藩主松倉氏(父・重政、子・勝家)による過酷な年貢・夫役や、全国禁教令後のキリスト教弾圧(踏絵や教会破却)が重なり、百姓・町人・浪人・潜伏キリシタンが蜂起しました。象徴的指導者は若き天草四郎(益田時貞)で、一揆勢は島原南部の原城に立て籠もります。幕府は諸藩軍を動員し、当初総攻撃を急いだ板倉重昌が戦死、その後松平信綱が包囲戦を徹底し、オランダ船の砲撃支援も得て原城を陥落させました(1638年)。鎮圧後、幕府は宗門改め・寺請制度の徹底や踏絵の常態化を進め、対外的にも1639年のポルトガル船来航禁止などの政策強化へつながります。 選択肢のうち、加賀一向一揆は16世紀の一向宗門徒による蜂起、大塩平八郎の乱は1837年の大坂での町人・郷士中心の蜂起、元和の大殉教は1622年長崎でのキリシタン大量処刑であり、本件とは異なります。 5 / 10 Q5. 1638年2月、幕府軍が原城に籠城した一揆勢3万人余をすべて殺戮した時、一揆軍のリーダーは誰でしたか? 1. 松倉勝家 2. 松平信綱 3. 有馬晴信 4. 天草四郎時貞 競勢酔虎伝:天草四郎(月岡芳年作)(Wikipedia) 【正解】4 【解説】 正解は天草四郎時貞です。島原・天草一揆(1637〜1638年)は、島原藩や天草諸島での過酷な年貢負担と禁教政策の強化に抗して、百姓・町人・浪人・潜伏キリシタンらが蜂起した大規模な武装反乱でした。若年の四郎は宗教的カリスマとして一揆勢の求心点となり、信仰的標語や聖画を掲げた軍旗のもとで原城に籠城します。 幕府側は諸藩を動員し、総大将の松平信綱の指揮で長期包囲と総攻撃を実施し、1638年2月の落城時には籠城者のほぼ全員が殺害され、四郎も討ち取られました(首は長崎で晒されたと伝えられます)。この壊滅的鎮圧は、以後の宗門改め・寺請制度や踏絵の徹底、さらには1639年のポルトガル船来航禁止など、一連の禁教・鎖国政策の強化に直結しました。 なお、選択肢の松倉勝家は島原藩主で過酷な統治の当事者、松平信綱は幕府軍の総指揮官、有馬晴信は島原の旧領主で1612年に処刑されており、一揆軍の指導者ではありません。 6 / 10 Q6. 江戸幕府は、信者と疑われる者にキリストや聖母が彫られた板などを踏ませ、それを拒んだ場合は「キリスト教徒」として逮捕、処罰しました。これを何と言いますか? 1. 宗門改め 2. 絵踏(えぶみ) 3. 寺請制度(てらうけせいど) 4. 五人組(ごにんぐみ) 踏絵(東京国立博物館所蔵) (Wikipedia) 【正解】2 【解説】 この行為は絵踏(えぶみ)と呼ばれます。キリストや聖母マリアなどの聖像を刻んだ踏絵(ふみえ)=道具を床に置き、対象者にそれを踏ませる行為(=絵踏)によって、キリスト教信仰の有無を確認しました。1614年の全国禁教令以後、とくに1620〜30年代に長崎を中心として制度化され、やがて各地の宗門改めの場でも実施されるようになります。踏むことを拒否すれば信者と認定され、拘束・拷問・流罪・死刑などの処罰の対象となりました。多くの潜伏信徒は命を守るため外見上は踏む「転び」を選び、内心で信仰を保つ道を模索しました。 なお、選択肢の宗門改めは村ごと・町ごとに行う戸口調査・信仰取締の総称で、その具体的手段の一つが絵踏です。寺請制度は住民を仏寺の檀家として寺に所属させる登録制度で、キリスト教徒でないことの証明にも用いられました。五人組は近隣相互で監視・連帯責任を負わせる治安制度で、宗門取締や年貢徴収の補助に使われました。以上から、設問に当たる名称は絵踏です。 7 / 10 Q7. 江戸幕府が禁教令に伴って設置した、潜伏キリシタンの摘発を専門とする役職は何と言いますか? 1. 寺社奉行 2. 町奉行 3. 宗門改役 4. 長崎奉行 【正解】3 【解説】 正解は宗門改役(そうもんあらためやく)です。宗門改役は、禁教令下でキリスト教の取締りを主務とし、各地で絵踏の実施、信仰調査(宗門改)、および宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)の整備・点検を行いました。これは寺請制度のもとで、住民がいずれかの寺院の檀家であることを証明させ、キリスト教徒でないことを確認するしくみを支える中核業務でした。宗門改役は寺社奉行や町奉行・郡代・代官、さらには五人組など地域の監督制度と連携し、潜伏キリシタンの摘発・改宗の勧告・処分の執行までを担いました。とくに長崎周辺では外国船や宣教師流入への警戒が強く、宗門改役は長崎奉行らと協働して監視体制を強化しました。 選択肢の寺社奉行は全国の寺社・宗教行政全般を統轄する上位機関で、個別の摘発実務は宗門改役が担うことが多かったです。町奉行は都市行政・司法・警察を幅広く管轄しますが、禁教取締は専任ではありません。長崎奉行は対外貿易・外交・警備を司る役職で、長崎という地の特性上キリシタン取締にも関わりましたが、制度上の専任取締機関は宗門改役でした。以上より、設問の答えは宗門改役です。 8 / 10 Q8. 幕府が禁止した宗教を人々に信仰させないようにする制度を何と言いましたか? 1. 宗門改役 2. 五人組 3. 絵踏(えぶみ) 4. 寺請制度 【正解】4 【解説】 正解は寺請制度です。寺請制度とは、江戸幕府が禁教政策の一環として、全国の人々をいずれかの仏教寺院の檀家(だんか)として登録させ、その寺から発行される寺請証文(寺請状)によって「キリスト教徒ではない」ことを証明させる仕組みのことです。婚姻・葬送・転居・就業・興行の許可など、日常生活の多くが寺請証文の提示を前提に運用され、証文がない者は潜伏キリシタンの疑いをかけられて取り調べの対象となりました。 この制度は、村方では宗門改(しゅうもんあらため)と連動し、年ごとに宗門人別改帳が作成され、住民一人ひとりの所属寺と身分関係が記録されました。実務には宗門改役や名主・庄屋、都市では町役人が関わり、違反者や改宗拒否者には処罰が科されました。寺請制度は、キリスト教の再流入と再拡大を封じる常時的・網羅的な監視枠組みとして機能し、結果として寺院と地域社会の結びつきを強め、江戸時代の檀家制度や葬礼仏教の広がりにも影響を与えました。 なお、選択肢の絵踏は聖像を踏ませて信仰を試す個別の検証手段、宗門改役は取締を担当する役職名、五人組は近隣相互監視と連帯責任を課す治安制度であり、いずれも寺請制度そのものではありません。 9 / 10 Q9. 1665年、幕府が宗派の違いを超えた仏教寺院僧侶全体に示した共通の法律を何と言いますか? 1. 諸宗寺院法度 2. 禁中並公家諸法度 3. 寺請制度 4. 武家諸法度(寛文条目) 【正解】1 【解説】 正解は諸宗寺院法度(しょしゅう じいん はっと)です。寛文5年(1665年)、4代将軍徳川家綱期に寺社奉行を通じて公布された法度で、天台・真言・浄土・禅・日蓮など宗派横断で僧侶・寺院に適用される共通規範を整えました。目的は、寺院行政の統制強化と、禁教(反キリスト教)政策の基盤整備、そして社会秩序の維持にありました。 内容面では、①住持(住職)任免や法系承継の手続きを本末制度(本山―末寺の上下関係)のもとで厳格化、②勧進や布教・巡錫の許可制、③僧の身分規律(勝手な還俗・遊興・酒宴の禁止等)、④寺領・什物の管理や訴訟手続の明確化などが盛り込まれました。これらは寺請制度や宗門改(宗門人別改帳の作成、絵踏の運用)と連動し、住民を寺院組織の網に組み込むことで、潜伏キリシタンの摘発・再流入防止を図る狙いがありました。 選択肢の禁中並公家諸法度は同じく家綱期まで継承された法令ですが、対象は朝廷・公家です。寺請制度は寺院が住民を檀家として証明する仕組み(制度)であって法度名ではありません。武家諸法度(寛文条目)は大名統制を目的とする武家向けの基本法で、寺院法とは対象が異なります。したがって、1665年の寺院共通法は諸宗寺院法度です。 10 / 10 Q10. 1665年、幕府が全国の神社や神職を統制するために下した、全5条からなる法令を何と言いますか? 1. 禁中並公家諸法度 2. 諸宗寺院法度 3. 諸社禰宜神主法度 4. 神仏分離令 【正解】3 【解説】 正解は諸社禰宜神主法度(しょしゃねぎかんぬしはっと)です。寛文5年(1665年)に寺社奉行を通じて公布された、全国の神社と神職(禰宜・神主)に共通して適用される全5条の統制法です。目的は、神社運営と神職の行動規範を明確にして地域支配を安定させることで、同年に僧侶・寺院向けに出された**「諸宗寺院法度」と対をなす宗教統制の枠組みでした。 主な内容には、①神職の任免・相続手続の厳格化**、②社領・神宝の私的処分の禁止と管理規定、③年中の祭礼・神事を古例どおり厳守すること、④無許可の勧進や金銭の私用の禁止、⑤紛争・訴訟は所定の手続きを経ること、などが含まれます。これにより、神社は幕府の宗教行政のもとで標準化され、地域秩序の維持装置として機能を強めました。 誤答の**「諸宗寺院法度」は同年に出された仏教寺院・僧侶向けの法度、「禁中並公家諸法度」は朝廷・公家統制のための法度、「神仏分離令」は明治元年(1868年)**の太政官布告であり、時代も対象も異なります。 参考リンク: 2018年、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産群」がユネスコの世界遺産に登録されました。詳しい情報は、次のサイトをご覧ください。 世界遺産を学ぶ長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産https://worldheritage.online/?p=927目 次 概要地図スライドショー登録の経緯遺産の概要歴史強い絆で結ばれたキリスト教信仰権力者たちが恐れた信徒たちの固い結束拷問と踏絵で改宗を迫る徳川幕府島原・天草一揆:2万人を超えるキリシタンが皆殺し密 もう一度! 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