【正解】4
解説
鎌倉時代は、武家政権の成立や度重なる戦乱(治承・寿永の乱、承久の乱)、天災や飢饉、さらに元寇などにより社会不安が広がった時代でした。こうした中で、人々は身分や学識の差を越えて、誰もが確実な救いに至れる道を求めました。新仏教の諸宗派――浄土宗・浄土真宗(日蓮宗、時宗を含む民衆教化系)や禅宗(臨済宗・曹洞宗)――は、そのニーズに応じて「平易で実行しやすい修行」を提示したことが大きな特徴です。
具体的には、法然の専修念仏(「南無阿弥陀仏」と称えるだけで往生可能)、親鸞の他力本願の徹底(善悪や身分を超えた救い)、一遍の踊り念仏による民衆への直接布教、日蓮の題目(「南無妙法蓮華経」)による救済、栄西・道元らの禅の実践(坐禅を通じて自らの本来の面目に気づく)など、いずれも「誰にでも届く方法」で精神の救い(成仏)を示しました。説教や和讃、辻説法、地方遊行などの布教スタイルも平易で、農民・商人・女性を含む幅広い層に受け入れられました。
一方、旧来の南都・北嶺の大寺院は国家鎮護や学問仏教の性格が強く、庶民にとって実践が難解に感じられる側面がありました。したがって、新仏教が多くの人々の信仰を集めた主因は、乱世の不安に応えつつ、救いの道筋を簡明に説き、行為(念仏・題目・坐禅)を通じて誰でも救済に達しうると示したからです。選択肢1・2・3のように、国家の強制や特権・難解さが支持を広げたわけではありません。
まとめ:
鎌倉仏教とは、鎌倉時代(12世紀末~14世紀初頭)に新たに興隆した仏教の流れを指します。この時代は、武士の台頭や政治権力の移行、さらに度重なる戦乱や自然災害によって社会不安が広がり、人々は現世での救済や来世での安寧を強く求めるようになりました。こうした社会背景のもと、従来の貴族中心の仏教から、庶民や武士にも広く受け入れられる新しい宗派が誕生したのです。
まず浄土宗を開いた法然は、阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を唱えるだけで極楽往生ができると説きました。これは複雑な修行を必要とせず、誰でも救われるという平易さから、多くの民衆に支持されました。弟子の親鸞は浄土真宗を開き、信心そのものが救済の根本であると強調しました。これにより、善人も悪人も平等に救われるという思想が広まりました。
一方、時宗を開いた一遍は、踊り念仏によって信仰を全国に広めました。念仏札を配り、民衆と共に念仏を唱える活動は、人々に強い影響を与えました。
禅宗では、栄西が臨済宗を伝え、座禅と公案による悟りの実践を広めました。武士階級に好まれ、質実剛健な精神と結びつきました。また道元は曹洞宗を開き、「只管打坐」(ひたすら座禅すること)を重視しました。これにより、思索よりも実践そのものが悟りの道であるとされました。
さらに、日蓮は法華経こそが唯一の正しい教えであると主張し、「南無妙法蓮華経」と唱えることで救済が得られると説きました。強烈な排他性を持つ一方で、熱心な信者を獲得し、後世に大きな影響を残しました。
このように鎌倉仏教は、念仏による平等な救済、座禅による自己修行、題目による独自の信仰実践など、多様な形で展開しました。その背景には、戦乱や社会不安の中で「誰もが救われたい」という切実な願いがありました。鎌倉仏教は、民衆の生活と深く結びつき、日本仏教史の大きな転換点となったのです。
参考文献:
貫達人・石井進編 (1993) 『鎌倉の仏教』有隣堂
平岡聡著 (2021) 『鎌倉仏教』角川選書
松尾剛次著 (2009) 『山をおりた親鸞 都を捨てた道元ー中世の都市と遁世』法蔵館
松原泰道著 (2000) 『道元』アートデイズ
左方郁子著 (2014) 『法然』淡交社
西原祐治著 (2006) 『浄土真宗の常識』朱鷺書房