
正解:1. 藤原頼通
解説:
藤原頼通(992–1074)は藤原道長の長子で、1017年に関白となって以後、後一条(1016–1036)・後朱雀(1036–1045)・後冷泉(1045–1068)の三代にわたり政務を統括し、在職は通算で半世紀近くに及びます。頼通は父・道長が確立した外戚関係(中宮彰子=道長の娘)を梃子に、太政官の上に立つ関白・摂政の権限を実務面で運用し、人事(除目)・財政・儀礼を掌握しました。とりわけ一条院以来の王朝文化を保護・主導し、宇治平等院・鳳凰堂(1053年)に象徴される藤原期の栄華を文化面でも体現しました。
一方で、1068年の後三条天皇即位以降は親政志向が強まり、荘園整理令などの改革で摂関家の専横に歯止めがかかります。これにより頼通の権勢は相対的に後退しましたが、11世紀前半の長期にわたる政権独占の中心人物が頼通であった事実は揺らぎません。なお、しばしば「頼道」と誤記されますが、正しくは「頼通(よりみち)」です。
まとめ:
平安時代における藤原氏の発展は、摂関政治の確立とその長期的支配によって特徴づけられます。奈良時代末から平安初期にかけて、藤原氏はすでに朝廷内で重要な地位を占めていましたが、本格的な権勢拡大の契機となったのは、9世紀初頭の藤原冬嗣の登場です。冬嗣は嵯峨天皇の信任を得て蔵人頭となり、天皇への近侍と政務運営の中枢を担う立場を確立しました。これにより藤原北家が他の諸家に先んじて台頭し、以後の主導権を握る基礎を築きました。
10世紀以降、藤原氏は天皇の外戚関係を利用して権力を強化しました。娘を天皇の后妃に入内させ、その子が即位すると外祖父として摂政(天皇が幼少の場合)や関白(成人天皇の場合)に就任し、政治の実権を掌握しました。この外戚政策は代々受け継がれ、藤原良房が正式に摂政に任ぜられたことを皮切りに制度化されます。良房の養子である藤原基経は関白に就任し、摂関政治の枠組みが完成しました。
摂関政治が最盛期を迎えたのは、10世紀後半から11世紀前半の藤原道長・頼通父子の時代です。道長は一条・三条・後一条・後朱雀・後冷泉の五代にわたり外戚関係を維持し、「この世をば我が世とぞ思ふ…」の歌に象徴される絶対的な権勢を誇りました。頼通も約50年にわたり摂政・関白を務め、長期政権を実現しました。この間、藤原氏は政務だけでなく、荘園の拡大を通じて経済基盤を強化し、文化的にも華やかな王朝文化の保護者として影響力を及ぼしました。
しかし、11世紀後半になると摂関政治は次第に衰退します。院政の開始により、上皇が直接政治を行う体制が広がり、藤原氏の専権は制限されました。それでも、藤原氏は依然として公家社会の最上位を占め、摂関家として政治・文化両面に影響を残しました。
総じて、平安時代の藤原氏の発展は、外戚政策による摂関政治の確立と最盛期、そして院政期以降の変容という流れで理解できます。彼らは権力構造の中で巧みに地位を維持し、日本中世初期の政治文化に深く関与したのです。
参考文献:
朧谷寿著 (2024) 『平安京の四〇〇年 : 王朝社会の光と陰 』 ミネルヴァ書房
北山茂夫著 (1973) 『日本の歴史4 平安京』中公文庫
佐藤信編 (2016) 『大学の日本史 1 古代』山川出版社