HOME > 歴史 > 日本史 > 世界遺産 日本史 明治の産業革命のことがよくわかる!クイズ10問 2025年9月13日 日本史クイズ 明治の産業革命のことがよくわかる!クイズ5問 1 / 10 Q1. 1883(明治16)年に操業を開始した大阪紡績会社は、どこの国から紡績機械を輸入して成功しましたか? 1. アメリカ 2. ドイツ 3. イギリス 4. フランス 【正解】3. イギリス 解説 大阪紡績会社は、渋沢栄一らの主導で創設され、1883(明治16)年に本格操業を開始しました。最大の成功要因の一つが、近代紡績の先進国であったイギリスから最新鋭の紡績機械(当時はプラット社製が主流でした)を導入したことです。蒸気機関による動力化と高性能のリング精紡機の採用により、大量・均質な綿糸の生産が可能となりました。これによって輸入綿糸への依存を減らし、コスト競争力と品質を同時に高めることに成功します。さらに、昼夜二交代制の導入や工場管理の近代化によって稼働率を上げ、紡錘数の拡充とともに生産規模を急速に拡大しました。大阪紡績会社の成功は他地域での紡績所創設を促し、日本の近代綿工業発展のモデルケースとなったのです。 2 / 10 Q2. 1890年代になると、製糸業は最も重要な輸出産業として発展しましたが、特に輸出額の多かった製品は何でしたか? 1. 綿糸 2. 生糸 3. 銅 4. 茶 【正解】2. 生糸 解説 1890年代の日本では、製糸業が輸出の柱として急速に伸び、生糸(未加工の絹糸)が輸出額の首位を占めました。横浜などの港からアメリカ(主にニューヨーク)やヨーロッパ(リヨンなど)の絹織物産地へ出荷され、日本の対外収支を支える外貨獲得源となりました。近代的な器械製糸の普及と品質管理の徹底(検査体制や等級付けの整備)により、均質で細く長い糸を安定的に供給できるようになったことが大きな要因です。 一方、茶は明治初期には重要輸出品でしたが、1890年代には生糸ほどの比重はなくなります。綿糸は当時国内の紡績業が成長しつつありましたが、輸出主力はむしろ生糸であり、銅も重要な鉱産物ではあったものの、生糸ほど輸出額は大きくありませんでした。生糸の輸出拡大は農村の養蚕の発展を促し、多数の女工が近代的製糸工場で働くことで賃金が家計に入り、地域経済にも波及効果をもたらしました。 3 / 10 Q3.綿織物の機械生産で特に貢献が大きかった国産力織機を発明したのは誰ですか? 1. 島津斉彬 2. 渋沢栄一 3. 田中久重 4. 豊田佐吉 【正解】4. 豊田佐吉 解説 豊田佐吉は、近代日本の繊維工業の発展に決定的な役割を果たした発明家です。1890年代に木製人力織機を改良し、やがて国産の力織機(動力織機)を実用化しました。最大の特徴は、糸が切れると自動的に機械が停止する「自動停止装置」などの工夫で、欠点布の発生を抑えつつ大幅な省力化と高い稼働率を実現した点にあります。これにより、輸入機に頼らずとも高品質な綿布を大量生産できる体制が整い、国内紡織業の競争力が飛躍的に高まりました。豊田の技術はその後の自動織機へと発展し、日本の綿工業の近代化を牽引しただけでなく、のちの重工業・自動車産業の展開にもつながる重要な基盤となりました。 4 / 10 Q4. 産業革命の中でも立ち遅れちた鉄鋼の国産化を目指して明治政府が設立した官営製鉄所は何でしたか? 1. 八幡製鉄所 2. 釜石製鉄所 3. 室蘭製鉄所 4. 富岡製糸場 【正解】1. 八幡製鉄所 解説 八幡製鉄所(官営八幡製鐵所)は、軽工業中心だった日本経済を重工業化へと転換させるために、政府が直営で建設した基幹製鉄所です。1901(明治34)年に操業を開始し、近代的な高炉・転炉・平炉などの設備を整えることで、国内で不足していたレールや造船用鋼材、機械用鋼材の大量生産を可能にしました。これにより、鉄鋼を輸入に頼る体質からの脱却が進み、鉄道網の拡張、造船・機械工業の発展、軍需生産の近代化など、多方面に波及効果をもたらしました。財源面でも、日清戦争後の国家財政基盤を背景に投下された公的投資と海外技術の導入が相まって、官営の「模範工場」として民間への技術移転を促した点が重要です。なお、②釜石製鉄所は日本近代製鉄の先駆ではありますが官営八幡とは別の系譜であり、③室蘭製鉄所は後発の民間・企業系製鉄所、④富岡製糸場は製鉄ではなく器械製糸の官営工場です。 5 / 10 Q5. 日清戦争後には鉄道が著しい発展をとげましたが、1902年の時点で、私鉄の占める割合はどのくらいでしたか? 1. 全延長の約30% 2. 全延長の約70% 3. 全延長の約50% 4. 全延長の約90% 正解:2 解説 日清戦争(1894~95年)後、日本では工業化と貿易の拡大にともない、原料・製品・人員の大量輸送需要が急増しました。政府は幹線の建設方針を示した鉄道敷設法(1892年)を持っていましたが、財政負担の大きさからすべてを直営で整備することは難しく、多くの区間で民間資本の参入が進みました。とくに1890年代後半から1900年代初頭にかけて、日本鉄道・山陽鉄道・関西鉄道・九州鉄道・甲武鉄道など有力私鉄が相次いで路線網を延伸し、地方都市や港湾、鉱山地帯を幹線と結びつけました。 その結果、1902(明治35)年時点では全国鉄道延長のうち私鉄が約7割を占めるに至りました。私鉄主導の拡張は、地域の資本形成と都市間競争を促し、運賃・所要時間の面でも利便性を高めましたが、一方で会社ごとの規格差や運賃体系の不統一、軍事輸送の即応性といった課題も生みました。これらの問題意識が高まり、日露戦争後には幹線の一元管理をめざして鉄道国有法(1906年)が制定され、主要私鉄の買収・統合が進みます。したがって、1902年の「全延長の約70%」という数値は、国有化直前の私鉄最盛期を示す重要な指標であると言えます。 6 / 10 Q6. 明治時代、外国向けの遠洋航路を開いた海運会社はどこでしたか? 1. 郵便汽船三菱会社 2. 大阪商船会社 3. 共同運輸会社 4. 日本郵船会社 【正解】4. 日本郵船会社 解説 日本郵船会社(NYK)は、1885(明治18)年に「郵便汽船三菱会社」と「共同運輸会社」が合併して発足し、政府の航路補助金や郵便輸送契約を背景にアジア・欧州・北米へと遠洋航路を順次開設しました。スエズ運河経由の欧州航路や太平洋横断の北米航路など、長距離の定期航路を運営することで、貿易品(生糸・茶・綿製品など)の輸送や郵便・旅客輸送を担い、日本の国際経済への本格的な参入を支えました。 選択肢のうち、①郵便汽船三菱会社と③共同運輸会社はNYKの前身企業で、合併後に「日本郵船会社」として遠洋航路網が整備・拡大されます。②大阪商船会社(のちの大阪商船三井船舶、現・商船三井の源流)は近海・アジア方面の路線で成長しましたが、明治期の「外国向け遠洋航路」の主導という点ではNYKが代表的でした。以上の理由から、正解は「日本郵船会社」です。 7 / 10 Q7. 明治期の資本主義の発展に伴い、少数の財閥が産業界を支配するようになりました。各財閥はどのような形態を整えて独占資本を形成するようになりましたか? 1. コンツェルン 2. カルテル 3. トラスト 4. シンジケート 【正解】1. コンツェルン 解説 「コンツェルン」とは、持株会社(本店・本社)や系列金融機関(財閥銀行)を中核に、鉱山・商社・造船・機械・化学など多業種の会社を株式所有や人事で一体運営する企業集団のことです。明治末(1900年代~1910年代初頭)には三井・三菱・住友・安田などの財閥が、銀行を資本供給のハブとして投融資と人事統制を行い、上位の持株組織が各社を統括する形で「財閥コンツェルン」を確立しました。これにより、単なる取引関係を超えた強固な支配力が生まれ、設備投資の集中、資源配分の迅速化、価格交渉力の増大などを通じて独占的な市場支配が進みます。 紛らわしい用語として、②カルテルは同業者間の価格・生産量などの協定で企業は存続したまま横並びの取り決めを行うもの、③トラストは合併・吸収で企業が法的に一体化して単一企業化するもの、④シンジケートは販売・仕入・融資など特定機能を共同化する組合的な形態を指します。財閥が多角的事業を傘下に収め、銀行・商社を核に統制した歴史的実態に最も合致するのは「コンツェルン」です。 8 / 10 Q8. 日露戦争後の日本で、財閥の中で特に強大だった二つの財閥はどれでしょうか? 1. 三井と住友 2. 住友と安田 3. 三井と三菱 4. 三菱と古河 正解:3 解説(ですます調) 日露戦争(1904–05年)後、日本経済は軍需・海運・鉱工業の拡張によって資本集積が進み、財閥の影響力が一段と強まりました。その中心にいたのが三井と三菱です。三井は三井銀行・三井物産・三井鉱山などを核に金融・貿易・鉱業を総合的に押さえ、国内外の資金・情報・物流を結びつけるハブとして機能しました。三菱は三菱合資会社を頂点に、日本郵船(海運)や三菱造船(長崎造船所などの重工業)、三菱銀行、三菱鉱業等を束ね、海運・造船・重工分野で圧倒的な存在感を示しました。 両者はいずれも持株会社本社を頂点に多数の事業会社を配するピラミッド型組織をとり、政府・軍需との結びつきや海外市場への展開力を背景に規模と収益力で他財閥を凌駕しました。住友・安田・古河なども有力ではありましたが、1900年代後半の時点で総合力・資本力・影響力の面で最も強大だったのは三井と三菱でした。その後、第一次世界大戦期に景気が加速するなかで両財閥はさらに躍進し、日本の産業構造に大きな影響を与えていきます。 9 / 10 Q10. 2015年に世界文化遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」は、全国8県11市に点在する23の構成資産からなっていますが、このような遺産は何と呼ばれていますか? 1. 文化的景観 2. トランス・バウンダリー・サイト 3. ミクスト・サイト シリアル・ノミネーション 正解:4. シリアル・ノミネーション 解説 「シリアル・ノミネーション」とは、地理的に離れた複数の構成資産が、ひとつの顕著な普遍的価値(OUV)を共有している場合に、これらを“ひとつの資産”としてまとめて推薦・登録する方式を指します。各構成資産はテーマや歴史的連続性、技術の発展段階などで密接に関連づけられており、全体として統合的な保全管理計画(マネジメント・システム)が求められます。「明治日本の産業革命遺産」は、製鉄・製鋼、造船、石炭産業にかかわる施設群が時代順に技術革新のプロセスを示しており、全国に点在していても、総体として近代産業国家の成立を語る一貫した物語を構成しているため、この形式で登録されたのです。 なお、選択肢の他用語との違いも押さえておくと理解が深まります。「文化的景観」は人間と自然の相互作用が生んだ景観の類型であり、「ミクスト・サイト」は文化と自然の双方で価値が認められた資産です。「トランスバウンダリー・サイト」は国境をまたいで複数国家にまたがる資産を指します。これらと異なり、シリアル・ノミネーションは“離れた複数地点を一つの物語で束ねて登録する方式”である点が特徴です。一般には「シリアル資産(シリアル・プロパティ)」とも呼ばれますが、登録時の推薦形態を強調して「シリアル・ノミネーション」と言い表します。 参考サイト(世界遺産を学ぶ): 世界遺産を学ぶ明治日本の産業革命遺産https://worldheritage.online/?p=938文化遺産 資産名: 明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業 Sites of Japan’s Meiji Industrial Revolution: Iron and Steel, Sh 10 / 10 Q9. 明治時代における日本の生糸の品質向上と大量生産に貢献した、富岡製糸場をはじめとする絹産業遺産群が世界文化遺産に登録されたのはいつですか? 1. 2007年 2. 2018年 3. 2014年 4. 2010年 正解:3. 2014年 解説 「富岡製糸場と絹産業遺産群」は、2014年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。対象は群馬県の富岡製糸場本体に加え、田島弥平旧宅(近代蚕室の原型)、高山社跡(養蚕教育・普及の拠点)、荒船風穴(天然の低温を利用した製糸用蚕種保存施設)から構成されます。これらは近代日本がフランス式器械製糸やボイラー動力などの新技術を導入し、生糸の均質化・大量生産体制を確立していく過程を、現地の建築・設備と制度の両面で具体的に示しています。 富岡製糸場(1872年開業)は官営の模範工場として、繭の選別や座繰りから器械製糸への転換、品質管理の徹底を牽引し、国際市場で高評価を得る安定品質の生糸を供給しました。養蚕技術の改良と教育システムの整備は全国へ波及し、明治期の輸出主力品であった生糸の量・質の双方を押し上げ、日本の外貨獲得と産業近代化に大きく寄与しました。これらの顕著な普遍的価値が評価され、文化遺産として登録に至ったのが2014年である、という点がポイントになります。 参考サイト(世界遺産を学ぶ): 世界遺産を学ぶ富岡製糸場と絹産業遺産群https://worldheritage.online/?p=808目 次 概要地図スライドショー登録基準の内容登録基準 (ii)登録基準 (iv)遺産の概要歴史主要な構成資産富岡製糸場田島弥平旧宅高山社跡荒船風穴関連動画へのリンク世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」 もう一度! Once More 終わる Finish Visits:121 | Today: 31 | Post Share Pocket Hatena LINE URLコピー -世界遺産, 日本史